2012年3月5日月曜日

インド天文学.zip

たまには研究の話をしよう。

私が大学院生としてやっている勉強と研究は、主にサンスクリット※1で書かれたインドの天文学書を読むことである。

インドの基本的天文学書は、いや、ほとんどの学問分野における基礎テキストに共通することは、とにかく短い言葉の中に内容を詰め込んで暗記しやすいように作られている。学者たるもの、教科書の内容は全て頭の中に入ってなければ失格なのだ。

そんなわけで、昔のインドで創られた(書かれたと言わない方が良さそうだ)教科書は、たいてい詩の体裁をとっている。厳格な韻律を守って編纂されているのだ。まあ、皆さまがお使いの教科書がすべて俳句や短歌だけで構成されているみたいなものだと思ってほしい。

さて、私が主に勉強しているのは『アールヤバティーヤ(Āryabhaṭīya)』という天文学書だ。西暦499年にアールヤバタ※2が世に出した百数節の韻文であり、例によって情報の徹底的な圧縮が施されている。というか、その圧縮具合が尋常でないので、1節だけご紹介したいと思う。

nṛṣi yojanaṃ ñilā bhūvyāso 'rkendvor ghriñā giṇa ka meroḥ
bhṛgu-guru-budha-śani-bhaumāḥ śaśi-ṅa-ña-ṇa-na-ṃśakāḥ samārkasamāḥ

ああっ、そのままページを閉じようとしないで!
注目していただきたいのは赤字の部分。これは全部数字なのだ。
アールヤバタは、サンスクリットにおける基本子音25個に1〜25の数字、8個の半母音や特殊な子音に30, 40, ...100を割り振り、それぞれにつく母音や位置に応じて1の位から10京(10の17乗)の位まで18桁の位取りができるようなシステムを作った。

ṣi(そり舌の状態で「シ」)というのは、ṣという80を表す子音+百の位に相当する母音のiの組み合わせなので、80×100=8000。これを正式なサンスクリットの数詞で表現しようとしたらaṣṭau sahasrāṇi(アシュタウサハスラーニ)。驚きの減量効果だ。

あとはたとえば、ghriñā(グリニャー)は(gh+r)×i+ñ×ā=(4+40)×100+10×1=4410。数詞ではcatuścatvāriṃśacchatāni daśottarāṇi(チャトゥシュチャトヴァーリムシャッチャターニダショーッタラーニ)だから、こちらも大幅な短縮に成功している。

もちろん、音と数字の対応関係も『アールヤバティーヤ』の冒頭で定義されてるんだけど、それ自体が極めて短い。最初に挙げたのと同じ長さの詩節1個だけだよ、信じられないよね。

まあ、ふつうのサンスクリットではあり得ない音の組み合わせが必要になる数字もあるので、とても発音しづらいのが難点ですがね。舌を咬む学生が続出したのか、アールヤバタ方式は長続きしなかった。もちろん、それに代わる方式が様々に考案されたのだけど、それはまた別の話。

文章を短くしようとするインド人学者たちの執念がお分かり頂けただろうか。余談だが、紀元前4世紀ごろに活躍した文法学者のパーニニ、 彼はサンスクリットの膨大な文法を2時間程度で詠唱できるテキストにまとめた人物なのだけど、「1音節の短縮は息子が一人生まれるのと同じくらい嬉しい」というコメントを残したと言われている。

おおっと、肝心なのは詩節の意味だった。和訳を並べてみよう。サンスクリットの詩節にはあまりに省略が多いので、そこは括弧で補った。

nṛṣi yojanaṃ ñilā bhūvyāso 'rkendvor ghriñā giṇa ka meroḥ
bhṛgu-guru-budha-śani-bhaumāḥ śaśi-ṅa-ña-ṇa-na-māṃśakāḥ samārkasamāḥ

1ヌリ※3の8000倍が1ヨージャナ※4である。地球の直径は1050[ヨージャナ]、太陽と月[の直径]は[それぞれ]4410[ヨージャナと]315[ヨージャナ]。メール山※5[の直径と高さ]は1[ヨージャナ]。
金星・木星・水星・土星・火星[の直径]は[それぞれ]月の5分の1、10分の1、15分の1、20分の1、25分の1である。[ところでこれ以降、]「年」といったら「太陽年(黄道上を太陽が1周する周期)」のことである。

書き言葉としての日本語は文字量を抑えられる便利な言語で、さらに私は数字という短縮表記手段(ちなみにこれもインド起源だ)を使っているのだけど、それでもこの長さだ。恐ろしい。

ところでこの詩節、テーマは地球と諸天体の大きさであるはずなのに、最後に「一年の長さの定義」という全然関係ない話が挿入されている。スペースが余ったから詰め込んだのだろう。
私はこれを見て、引っ越しのために荷造りしているときを思い出した。「本」とマジックで書いたダンボールへ文庫本をびっしり詰め込んだところスペースが余ったので、私はCDを何枚か入れたのであった。
おおかたそんな感覚であろうか。

ここまで読んで頂ければ察しが付くと思うのだけど、『アールヤバティーヤ』は単独ではとても読めたもんじゃない。アールヤバタ自身も弟子達に口頭で解説しながらこの教科書を伝授しただろうし、後世には数十冊の注釈書が書かれている。
私の修士論文は、そのうち1つを現代語訳することだった。注釈書だからさすがに散文(ふつうの文章)で書いてくれているのだけど、それでもインド人の感覚についていくのはなかなか大変だ。

また気が向いたら色々ご紹介したいと思う。


※1: 古代〜中世のインド文化圏における学問と宗教の場で使われた言語。ラテン語が中世〜近代のヨーロッパで果たしたのと同じ役割を果たしたと言っていいと思う。サンスクリットは「仕上げられた物」を意味するsaṃskṛtaに由来する単語であって地域・民族の名ではないので、「サンスクリット語」というと違和感がある。

※2: Āryabhaṭa。『アールヤバティーヤ』の記述から、彼が476年生まれで499年に同書を完成させたことが分かっている。0〜90°まで3.75°刻みの角度に対応する正弦(sin)の一覧や方程式論を説き、それを天文学に応用する方法も示した。彼の流儀が多くのインド天文学者に影響を与え、それはのちのイスラム文化圏、そして近代ヨーロッパの数理天文学にも引き継がれる。ちなみにWikipediaに彼の項目があるけど、少なくとも15箇所の間違いがあるので読んではいけない(っていうか名前も違ってるし)。

※3: 両手を伸ばして立った男性の高さ。昔の人間の背丈が低いことを考慮すれば、だいたい170〜180cmくらいか。

※4: 十数kmの長さ。日本にも「由旬(ゆじゅん)」と音訳されて伝わっている。

※5: インドの世界観で、宇宙の中心に位置すると考えられた非常に高い山。ヒマラヤ山脈からの想起と思われる。日本には「須弥山」の名で伝わっている。伝統的世界観では人智を超えた高さなのだけど、地球が球体であることを知っているアールヤバタは、それを常識的な高さに収めた。

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